第一話 Sign

 

 

 

 

 ―― Sign1 ――

 

五月 東欧 クロアチア

 

 地中海性気候のこの国は基本的には温暖な気候で、特にアドリア海に沿った沿岸地域では冬になっても肌寒い程度までしか気温が下がらない。だが、沿岸地域とは違い、クロアチアの内陸地はとても温暖な気候とは言えない。春先の五月であっても真冬のように寒く、朝は霜が下りる程だ。其の為、観光客もこの時期は殆ど来ない。

 だからこの時期に、其の明らかにこの国の人間ではない男女がクロアチア内陸地――首都ザグレブや国内有数の観光地であるドブロヴニク、スプリットから遠く離れた辺鄙な片田舎に居るのは凄まじく違和感のある光景だった。

 一人は水色のショートヘアの若い女性。銀縁の眼鏡を掛け、パリッと糊の利いたワイシャツに黒のフィットパンツ、琥珀色の指輪とブローチにタイ、ファーの付いたシックなレザージャケット、身奇麗な服装に身を包んでいる。

 もう一人は年端も行かない子供だ。しかし、少年なのか少女なのか、それは分からない。

見ようによっては、少年とも少女とも取れる。有りがちな表現をするのであれば中性的な顔立ちである。彼、もしくは彼女は先のショートヘアの女性と違いラフな格好をしていた。ニューバランスのスニーカー、ジーパンにTシャツ、クリーム色のニットセーター、その上からエプロンを掛けている。背中まである艶々としたダークレッドの長髪を項の辺りで、銀細工で装飾された黒い髪紐で結っていた。

 二人には年齢容姿身形の違いはあるが、総じて言える事は二人とも同じ黄色人種である事と早々お目には掛かれない程洗練された容貌をしていると言う事だ。

水色の髪の女性はまるで人形の様に精緻で一部の隙も無い端正な顔立ち、無駄な肉など1mgも見当たらない引き締まったスマートなスタイルと相俟って作り物のような印象を受けてしまう程に精彩である。しかし、腰や胸元、項には人形などでは決して出せない筈の生身の雌が持つ色気と生気が発せられており、彼女が生きている女なのだと証明していた。

  片や彼女の連れであると思われる子供もまた、かなりの美童であった。先に言ったように男性性なのか女性性なのかは分からない、と言うよりも、こうして外見だけを見るだけでは全く判断できないのだ。本当に男とも女とも取れるし、其のどちらでも無い様にも見える。恐らくまだ二次性徴を迎えていないだろうとは言え、ここまで来ると最早其れは異形と言っても良いのではないのだろうか?しかし、だからこそこの幼子には凡庸な美少年美少女には無い尋常ならざる妖艶さと魔性の美しさが有った。恐らくギリシャ神話に出てくる美しい両性具有者ヘルマプロディトスはこの幼子の様な形貌をしていただろう。

 彼女達は沿道の脇、牧草が生い茂るだだっ広い平原に居た。時間的には早朝だが、まだ日は昇っておらず、空には月が鎮座し星が瞬いている。吐く息は白く、凍えるように寒い。二人は焚き火を囲って暖を取っていた。

 手ごろな大きさの石で火を囲い簡易的な釜戸にした其処にはポットが掛けられている。シュッシュッとポットの口から蒸気が吹くと、クーラーボックスを調理台替わりにして野菜を微塵切りにしていた赤毛の子供は横の大きなバスケットバックから簡素なブリキのコップを取り出す。ポットから其のコップにお湯を入れて、インスタントのティーバックを浸した。無色透明だったお湯が徐々に淡い緋色に染まってくると、ちょっぴりの蜂蜜とレモンを絞って淹れる。

「橙子姐さん、どうぞ。」

赤毛の子供は淹れたての紅茶が入ったコップを、石を椅子代わりに座っている水色の髪の女性に差し出す。

「ありがとう、士郎君」

そう答えて、橙子はコップを受け取り、湯気の立つ紅茶を一啜りした。そうして紅茶をジックリ味わって嚥下した後、感心したとも、呆れたとも言うように一つ息を吐き、

「相変わらず、士郎君が淹れる紅茶はインスタントでも美味しいわ。と言うより、士郎君が作る物は何だって美味しいんだけど、女としては少々複雑ね」

悪戯っぽく笑って言う。

其れを聞いて、士郎と呼ばれた赤毛の少年は少しむずがる様に照れながら苦笑して、また調理に戻った。

そんな士郎の小さな背中を見詰める橙子はもう一度紅茶を味わうと、銀縁眼鏡を外して口を開く。

「しかし…中々興味深い話だな」

橙子の其の冷徹さが嫌と言うほど滲み出ている声は先ほどまでとは似ても似つかない物だった。声だけではない、口調、顔付きや目付きもだ。今まで年長者然とした柔らかさの有った表情は失せて消え、冷艶な表情が張り付いている。顔貌は同じだと言うのに、纏う雰囲気が全く違う為にまるで別人に見える。二重人格、解離性同一性障害の類に近い。だが、士郎は橙子の其の豹変にまるで動じる事は無い。いつもの事と言わんばかりに朝餉の支度を続けながら平然と返す。

 「何がですか、橙子師?」

 「お前が見たと言う夢だ」

 「ああ……」

 士郎は何の気無しに答える。一時間足らず前の事とは言え、既に曖昧模糊になりつつある今朝見た夢想が脳裏を過ぎった。

 自分が死ぬ瞬間――

 強大な渦――

 全てを喰らい尽くす『黒』――

 最後の晩の時の父の横顔――

 自身の今までの記憶の断片と意味不明なヴィジョン、細切れにしたフィルムの様に断続的に浮かび上がってきた其れらは一見何の関連性も論理性も無い幻、あまりに意味が無さ過ぎて後味が悪い夢、悪夢と言っても良かった。我ながら悪趣味だとも思う、あまりに悪趣味すぎて、意味無く己が師に語って聞かせてしまうほど。でも、

「ただの夢ですよ」

 確かに少々独創的かも知れないが、特段、異質な所など無いただの下らない夢だ。

 だが、橙子はフッと笑う。

「其れはどうかな?」

「……珍しいですね、橙子師が人の夢に興味を持つなんて」

包丁を握っている手を止め、橙子の方を振り返る士郎は不思議でならなかった。まだ、出会って数年だが、今目の前に居るこの青崎橙子と言う人物は人の内面などにはまるで興味の無い人物だと認識していたからだ。

彼女が重視しているのは人の内面――精神や魂などと言った不確定で不明瞭な非物理実体ではなく、それらを納める器たる外面――確固とした物理実体たる肉体である、と士郎は思っていた。事実そうなのだろう。彼女は其の肉体の探究とその肉体の写し身の追求を偏執的なまでに行い、遂には誰も到達し得ない高みに至るまで極めてしまったのだから、まず間違いは無い。

だからこそ、士郎は訝しかった。

自分のような中途半端な未熟者がしたり顔で心理学なぞ語るのもなんだが、かの高名なフロイトが言うまでもなく夢と言うのはその人の心を端的且つ分かりやすく映し出す鏡だ。眠りと言う自我や理性等の精神的武装、防壁が掻き消えている無意識下だからこそその人の精神性が夢見る内容に露骨に作用する。少々乱暴ではあるが、いっその事、夢はその人が自己に内包している精神世界そのものと言ってもいい。

 橙子師がそんな人の夢――精神の有り様に注目するなんて一体どういった風の吹き回しなのだろうか?

「勘違いするな。私はお前が見たと言う夢の内容――精神世界の有り様――には興味は無い。私の知的好奇心が触発されているのは、『お前が夢を見た』と言う、其の事実さ」

 橙子は紅茶の入ったブリキのカップを横に置き、レザージャケットの内ポケットから少し皺の寄った煙草の箱を取り出す。それはいかにもマイナーで安っぽい、見た事も無い銘柄だった。かつて士郎が聞いた話しでは台湾に居る橙子の知己が作った職人手製のクソマズイ煙草だとか。

其のクソマズイ煙草を一本咥えて火を付ける橙子。

風に乗って香ってくる紫煙の匂いは士郎に嫌が応にも今朝の夢に出てきた己が父の事を思い出させる。

其れを知ってか知らずか、橙子は士郎に見せ付けるようにしてゆっくりと煙を嚥下して毒を味わう。

しばしの間、士郎の白い吐息と橙子の吐く紫煙が虚空で交じり合った。

たっぷり煙草を楽しんでから橙子は言う。

「聞くが、お前、今朝以外で今まで夢を見た事は?」

「無いですね」

淀み無く即答する士郎。

数年ばかりの短い時間ではあるが、士郎は生まれて此の方、夢を見る事など一度たりとて無かった。夢と言う概念こそ知識として知ってはいたが、実体験による経験は今朝まで皆無だったのだ。だからこそ、始めて見た夢――悪夢と言った方が良いだろうか――に戸惑い、こうして橙子に相談している訳なのだが。

橙子は士郎の返答にさして驚く事も無く、一つ頷く。

「だろうな、本来、お前が夢を見る筈が無い」

「…と、言うと?」

「いいか、士郎?夢を見ると言うのはな、言ってしまえば、擬似的な『個から全への回帰』なのだよ」

「個から全へ……?」

「そう、『個』から『全』へ。士郎、そもそも『眠り』とは一体何だと思う?肉体の休息や自己保全などといった睡眠の存在意義云々ではなく、我々が深い眠りに就いている時の状態は一体何だと思う?」

「……擬似的な『死』、ですか?」

「当たりだ。聡い優秀な弟子を持てて私は嬉しい。」

士郎の答えに満足気に頷き、橙子は続ける。

「『死』を個の消滅と定義するのならば、あの完全に意識を手放した無意識、確固とした己を形成する我を捨てた無我の状態は正に『死』そのものだ。私達は生きながらにして毎日毎晩何度も『死』を体験している。では、ここで一つ疑問点がある。『眠り』という疑似体験の『死』を迎えている際、現実世界から乖離している私達自身の意識や自我は何処に言っているのだろうな?いや、そもそも疑似体験などではなく実際に死んだ人間は死後どうなるのだろうか?死したる者の肉体は朽ちて消えるが、其の者の魂は何処へ行きどうなるのか?」

「何だか宗教染みた話になってきましたね」

「まぁ、宗教と言う物は人類最古の『命』を探求する学問だからな。『生』や『死』の話になってくるとどうしても宗教臭くなってしまうのは仕方が無いさ。だが、私と宗教屋達とで違う事があるとすれば、私は神は存在する、と知ってはいても神の事を信頼はしていないし、天国や地獄なんてものも信じていないという所だ。……話が逸れてしまったな。さてと、死んだ後、死んだ者の魂は何処へ行くのかだったな?言ったように、私は多くの宗教が語るような死後の世界――天国、地獄、楽園、煉獄など無いと思っている。そんなものは幻想だ。」

「其れは俺も同意見です」

士郎もまた、橙子と同じく神の事は信頼していなかったし、天国や地獄と言った宗教で語られている死後の世界は人の作り出した幻想だと思っている。何故ならば、もし本当にそんな物が有るとすれば、今士郎は此処には存在しない筈だからだ。それに、橙子もそんな月並みな答えなど望んではいないだろう。

しかし、だとするのならば、一体、死後、人は何処へ行くと言うのか?士郎には其の答えにまるで見当が付かなかった。言っても士郎はまだ、十歳にも満たない幼子、生気に満ち溢れている瑞々しい命だ。『死』を考えるには若すぎる、仕方が無い事だ。いや、それとも、士郎にとって『死』とはわざわざ考える必要が無い程にあまりに身近すぎる為、逆に今まで見えていなかっただけか?

とにかく、どちらにせよ士郎は橙子の問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。

「ではヒントをやろう。ミトラ祈祷書、だ」

「ミトラ祈祷書……?」

ミトラ祈祷書とは古代ペルシアで隆盛したアフラ・マズダを主神とするゾロアスター教の経典の一つである。

このミトラ祈祷書の存在は士郎にとって知識の範囲内であるが、その拝火教の経典と今話している『死』引いては『夢』がどう言った繋がりが有るのか分からなかった。しかし、橙子が意味無く此方を困惑させる妄言を吐く筈は無い。ヒントと言うからには何かしらの糸口が……。

そこで、士郎はある心理学者の体験談に思い至る。

「『集合的無意識』」

「太陽から、筒がさがっていて、筒から風が吹いている。筒がこちらを向くと西風が吹き、筒があちらを向くと東風が吹く。だからそれにあわせて首を振っているのだ」

橙子が朗々と詠んだ其の詩はとある高名な心理学者が治療を担当した分裂病患者が語ったと言う妄想である。しかし、其れはミトラ祈祷書の一説でもある。その妄想患者は勿論、ミトラ祈祷書など読んだ事は無い、其れ所か、ミトラ祈祷書の存在すら知らなかった。だと言うのに、その一説を一言一句違えずに己の妄想として諳んじて見せたと言う。

単なる偶然?

いや違う。どんなに偶然が重なっても、一言一句違える事無く言葉が重なる事など有り得ない。

ならば何故?

「全ての人間の意識の最下層はみな同一の湖に行き着くと言う考え。これを心理学では『集合的無意識』、仏教では『阿頼耶識』と呼ぶ。其の分裂病患者は無意識的にではあろうが、ありとあらゆる人間の意識、情報、知識、願望の塊である『阿頼耶識』にアクセスし、己の妄想と言う形でミトラ祈祷書の一説の情報を汲み取ったんだよ。」

「阿頼耶識……」

「『個』である人は全て『全』である『阿頼耶識』に繋がっている。『個』は全て『全』から生じ、そして全ての『個』は『全』へと回帰して行くものだ。現世に留まる為の頸木である肉体が失われた後、魂は『個』である事を捨てて単なる情報となり、『全』である『阿頼耶識』の一部として取り込まれる。膨大な情報の一部へと還る、それが『死』を通過儀礼とした我々の最終的な末路さ」

「…………」

「ではここで、夢の話に戻ろう。先に言ったように、『眠り』とは擬似的な『死』だ。魂もまた擬似的な『個』から『全』への回帰を迎えて、『阿頼耶識』へと還っていこうとする。勿論、頸木である肉体が健在なので、『阿頼耶識』の表層部分までしかいけないがね。『夢』はその際に垣間見る『阿頼耶識』の中に蓄積された己自身を含める数多の者達の情報や思念、願望だ

其処まで聞いて、士郎は納得した表情で言う

「成程、『阿頼耶識』とはこの『世界』に存在している者達の意識の集合体、『夢』は『眠り』と言う擬似的な『死』を迎えて擬似的な『個』から『全』への回帰をする際に見る『阿頼耶識』の一端。それなら、俺が見れる筈が無いですよね」

だって――

「俺は世界から隔絶している『異端』。『個』から『全』へ回帰しようにも、そもそも『阿頼耶識』なんかと繋がっていないのだから擬似的にでも何でも回帰のしようが無いですもんね」

と言うか、自分はそもそも『生』とか『死』とか『個』とか言う、それらのカテゴリーに含まれているのだろうか?

「素朴に疑問だ」と、士郎が首をかしげていると、

「だが、だからこそ、お前が夢を見たと言うその事実は大変に興味深い」

「……橙子師、どうでも良いですけど、その笑い止めて貰えませんか?すごく怖いですよ」

士郎は少し脱力したとも、諦観したとも言うような具合で言う。

「おや、すまないね」と答える橙子は今も尚、口角を吊り上げて笑っていた。其れは笑みと言うよりは捕食者が獲物を喰らう前に牙を剥き出す様に見える。見ているだけで背筋に薄ら寒い物が走るが、実際の所、士郎はもう慣れっこだった。だが、これは良くない、とても良くない流れだ、とも知っていた。

今まで、橙子が自身の知的好奇心を狂おしいほど触発された時にしかしないこの笑みを見せた時、良い事が起こった試しは一度たりとて無い。その癖、良くない事は安売りセールみたいに数え切れないほどやって来る。それは最早、士郎の中で確立100%の絶対のジンクスであった。

いや、まぁ、厄介事を呼び寄せている大元の原因は常に自分なのだけれど……。

士郎は先行き不安な物になったこれからの事を考えて、内心で溜息を吐く。

「ふぅむ、何か失礼な事を思われている気配がするなぁ?」

いつの間にか二本目の煙草に火を着けて橙子は非難するように目を眇める。相も変わらず鋭い。

「で、でも、どうして、夢を見られる筈の無い俺が夢なんか見れたんでしょうか?」

士郎は少々どもりながら誤魔化す様にして言った。

話を逸らそうとしている士郎の魂胆は恐らく、いや、確実に感付かれていただろうが、橙子は「まぁいいさ」と追求してはこなかった。

ホッと小さく安堵の溜息を吐きつつ、

「けど、本当に…どうして夢なんか?今になって……」

「さぁな、さっぱり分からん。見当すら付かんね」

「…………」

「何だ、其の目は?私にだって分からない事ぐらい有るさ」

魔術師としての技と術を磨き、『人形師』とまで呼ばれ、博識で膨大な知識をその灰色の脳細胞に蓄積している橙子とは言え、全知全能ではないのだから知らない事だって有る。

士郎とて其れは分かっていたが、ここまで引っ張っておきながらこうも堂々と「分からない」と言い切られると、「それは無いだろう」と思ってしまうのも無理からぬ事だ。

「其れよりも、紅茶お代りだ」

橙子はいつの間にか空けていたコップを士郎に差し出す。

 

 

「其れよりも、紅茶お代りだ」

「……はい」

か細く白い無垢な指でコップを受け取った士郎はポットから湯を注ぎ、紅茶を淹れる。

其の手並みはスムーズ且つ自然な動きだったが、それが逆に不自然だった。私の記憶が正しければ士郎は今年でやっと十歳になる、そんな子供がこんな主婦染みた事を手際よくテキパキとこなす様は何かの冗談に思えた。

 本来ならば、逆に年長者である私が士郎の世話を焼いてやらねばならないのかも知れないが、私はこいつの親でもなければ保護者でもないので其の限りではない。

この衛宮士郎と私――蒼崎橙子の関係は一言で言うのならば‘師弟’だ。今から二年前、士郎を弟子として迎え入れ、それから今日に至るまで色々と教えている。具体的に言うなら文学やら数学やら科学やら哲学やら教養やら礼儀やら時代遅れで非効率的な‘魔術’やらをだ。

昔から師匠の周りの雑事を行うのは弟子の仕事。だから、私と士郎の関係において、コレはむしろ当たり前の事である。

それに、言い訳をする訳では無いが、士郎は私に師事する以前――養父と暮らしていた時から家事や雑事を行っていたらしい。私もよく知る彼の養父はお世辞にも生活力があるとは言えないから、士郎が変わりに料理洗濯掃除等を請け負っていたのだそうだ。其の為、こう言った家事手伝いはお手の物、加えて、自分の性分にも合っているらしく、むしろ家事や私の身の回りの世話をする事を嬉々として楽しんですらいた。

しかし、いつもならば活き活きとして茶を淹れて朝餉の支度をしているはずの士郎は動作こそいつも通り手馴れているが、どこか脱力した様子で淹れ直した紅茶のカップを私に差し出している。

私はその不貞腐れた子共のような――士郎は元から紛う事無き子供だが――仕草にフッと小さく笑う。

士郎本人としては『魔術師たる者、己の情動を無闇やたらに顕にするな』と言う私の教えを守って、心の内を表に出さないようにしているようだが、私から言わせればバレバレ、筒抜けも良い所だ。

『ここまで話を引っ張っておいて「分からない」は無いでしょう』と言った所か?

本当に手に取るように分かる。

まぁ、こいつの言う事――いや、思う事か――も分からなくはない。だが、そうは言っても、知的好奇心は触発される物の、実際問題分からないのだからどうしようもない。予想を立てようにも見当も付かないのだから仕方が無い。探求者としては甚だ不本意ではあるが、全くの御手上げと言う奴だ。

だが其れは今回に限った話しではない。

自惚れではないが、客観的事実として私は尋常離れした才覚と知識と技術を持っている所謂天才と呼ばれるモノだ。だが、そんな私でもこの世界に分からない事は山ほどある。‘世界’は天才ごときで全てを認識出来るほどチャチではない。こと私の弟子はそれの良い例だ。衛宮士郎と言う存在そのものが謎の詰まったブラックボックス、否、災厄も詰まっているのだからパンドラの箱だ。分かっている事、理解し得る事よりも分からない事、理解し得ない事の方が圧倒的に多い。この数年間、師弟として寝食を共にし、指導、訓練、修行を施してきたが、却って分からない事が多くなった位だ。今回の件――『士郎が夢を見た』も其の一つだ。

この『異端』たる我が弟子に関して分からない事は分からないのだ。

探求者としての私は少しも納得はしていないが、師としての私は最早、達観している。

だが、当の本人はそうではない。自分で自分の事が分からない事に関して歯痒さと言うか、居心地の悪さを感じているらしい。

何とかしてやりたいと思わなくも無いが、分かりもしない事を分かったように語るのは論外だ。弟子の教育上宜しくないし、何より私は知ったかぶりと言うのは自分がするのも他者がするのも大嫌いだ。師としても個人的な問題としても否だ。

ではどうするか?

私はいつも通り気休めを言ってやる事にした。

「何かしらのサインかもな」

「サイン?」

紅茶の入ったコップを受け取る私の言葉に士郎は聞き返す。

「何事においても、何かが始まる時、動きを見せる時には必ず其の予兆が有るものだ。船が帆に風を受けて進めば其れに先んじて漣が立つようにな。もしやすると、今回、本来夢を見られる筈のないお前が夢を見たと言うのも、これから起こる何かしらの予兆――サインなのかも知れない」

まるでインチキ占い師の妄言だ。

何の論理性も蓋然性も無い、正に気休め。

自分で自分の言っている言葉に呆れてしまう。

だが、何も言わないよりは幾分か良いだろう。

それに、士郎も満足は出来ずとも、ある程度は納得できた様子だ。

ホゥと溜息を吐いてから、煙草を座っている岩に押し付けて消し、眼鏡を掛ける。

「ところで、良いの?」

「え?」

「吹き零れているわよ、お鍋」

「ああっ!」

私の指差す先を見て、士郎君は声を上げる。

ポットと一緒に掛けていたスープのベースが入っている鍋から煮だった中身が零れてしまっている。

「それに、そろそろ練武の時間でしょ?あの寝坊助の怠け者を起こした方が良いんじゃない?」

慌てて鍋を火から取り上げる士郎君に懐から取り出した懐中時計を見せ、私達の寝床として使っている天幕を指差して言う私に士郎君は「あっ、そ、そうでした!」と言って、私の愚妹――士郎君にとってのもう一人の師が未だに怠惰に寝こけているであろう天幕へと小走りで駆けていく。

ふと東を見てみると何時の間にやら朝日が覗き、暁光が大地と空に差し込んできている。頭上にはまだ月と満天の星空が。

朝と夜の入り混じった混沌なる夜明け。

今日もまた、こうして私の――私達の一日が始まっていく。

 

 

 

―― 閑話 分岐点 ――

 

 其の者は悩んでいた。

 行くべきか、行かざるべきか。

 選択肢は二つのみ、どちらか一つを選べば良い。

 だが、簡単に見えるこの取捨選択は事、今回に限ってはラビュリントスを踏破する以上に困難且つ危険を孕んだ物だった。

 お笑いだ、‘魔法使い’たるこの身が、最強と謳われる魔道元帥が、死の徒と恐れられる宝石の翁がまるで飴玉とケーキを前にしてどちらか選びかねている童の如く考えあぐねて決断しかねているとは。

 其の者は未だに残っていた自身の優柔不断さに自嘲し、手の中にある文に目を落とす。

 其処には、其の者にとってよく知る人物の筆跡でこう書かれていた。

 

『我に隠し事はならず――』

 

 

 

―― Sign2 ――

 

轟音が鳴り響く。

圧倒的な質量を持った何かと何かが容赦なくぶつかり合うような音、砲弾と砲弾が正面衝突した様なけたたましい音が一つ二つ三つと、夜が明けたばかりの朝の澄み切った空気を震わせ、辺りに木霊している。

しかし、その音源となっているのはその荒れ狂う轟音からは想像も出来ないようなものだった。

 

 

右拳打、左ハイキック、ジャンプしての二段蹴り、右肘打ち、飛び膝蹴り。

反撃の隙を与えぬよう、技と技の合間を空けずに叩き込む。

相手のガードを突き崩す為に渾身の右ストレートを繰り出すが、士郎の拳は空を切った。間隙を突かれる前に回転肘打ちを繰り出す、しかし、其れもまた難なく片手で受け止められてしまう。次いで左脇腹に鋼鉄のハンマーで思い切り殴られた様な凄まじい衝撃が走る。ミシミシと骨の軋む音が頭の中に響き、肺から空気が一気に搾り出され、胃の中の物が逆流しそうになり、身体に駆け巡る激痛に一瞬意識が飛びかけるが、歯を食い縛って踏み止まる。自分の脇腹につきささっているかのようにめり込んでいる腕を掴みとって捻り関節を極め、地を蹴って相手の顔面目掛けて飛び膝蹴りを喰らわした。腰の捻りと跳躍の際の回転による遠心力で膝蹴りの威力は申し分なかった。ガードも無く、相手の鼻筋に物の見事に打ち込まれた。どんなにタフな相手でも効いている筈、少なからずダメージを負う筈の一撃である。

しかし、

「…まぁまぁかな?でもまだまだ功夫が足りてないわね」

次の瞬間、膝蹴りをした足を掴み取られたかと思うと、体ごとグイッと持ち上げられ、そして地面に叩きつけられる。

士郎の華奢な身体はまるでボロ雑巾か何かのように幾度も地面に叩きつけられたかと思うと、軽々と蹴り上げられ、中空を舞った所で、水月に音さえ置き去りにする正拳突きを打ち込まれて十メートル程後方に吹き飛んだ。

受身も取れずに地面に殴り飛ばされ、這い蹲る士郎は何とかして立ち上がろうとするが、身体はショック状態でも起こした様に痙攣し、力が入らず、到底立つ事など出来はしない。胃から込み上げてくる物を抑え切れず、血反吐を吐いた。

そんな士郎の様子に呆れているかのような溜息が一つ。

「ダメよ、士郎。そんな所に這い蹲っていちゃあ。練武を兼ねた模擬線とは言え、戦いにおいて足を止めるって事は致命的、さっさと止めを刺して殺して下さいって言っているような物よ?腕が捥げようと内臓が飛び出ようと立ち上がらなきゃ」

「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…」

士郎は答えられない。それだけの気力と体力がまだ戻っていない。

今まで士郎が受けてきた拳打や蹴撃は一発一発全てが容易に人体を破壊して死に至らしめる必殺の一撃である。其の為、防御をして受けてもガードの上から嫌と言うほど響く。避けようにもあまりに鋭く早い為、いまの士郎の技量では避け切れないので、受けるしかない。そんな理不尽な拳と蹴りを幾打も受け続け、其の上、最後は人体の急所である水月――鳩尾に必殺の正拳をガード無しの状態でモロに喰らったのだ。冗談ではなく、常人ならば其の儘死んでしまうだろう必殺の拳を。

死ななかったのに加えてこうして意識を保てているだけで大した物である。

だが、先程の声の主はそれでは御不満らしい。

「え~っと…三分二十五秒?うん、七秒記録更新したわね。其れに私に一撃入れたし、其れは褒めてあげる。序盤は確かに中々いい攻め方だったわ。でも、其の後のあのグダグダは何?技の組み立て方が雑過ぎ。勝負を急いで捨て身に出たでしょ?其れってね、闘争や殺し合いの中では最低最悪の悪手なのよ。勝利する者、勝利し得る者、勝利すべき者は最初から負ける気も死ぬ気も毛頭無い。死んででも勝とうなんて考えた時点でそいつに勝利なんて結果は無いわ。有るのは敗北と言う惨めな末路のみよ」

其の若い女性はたった今自分がボコボコにして疲労困憊状態に追いやった士郎に何の引け目も無く説教する。

「其れと、私に一撃入れたのは良いけど、全然効いてないわよ?確かに中々の威力だったけど、私に手傷を負わせるなら少なくともあれの五倍以上の威力でないとダメ。鍛錬を積んでもっと功夫を付けなさい」

「心、得ました…青子、師父……」

鼻と口から血をダラダラと流し、汗に塗れながら息も絶え絶えに答える士郎。彼が見上げる先には自らが言った通り、少しの負傷も疲労も無いもう一人の師――蒼崎青子が悠然と屹立し、地に這い蹲る士郎を見下ろしていた。

ここで一つ言っておく事がある。元から華奢な体付きの為か、士郎は身長や体重は同年代の少年達の其れよりも低く、軽い。女性でも片手で軽々持ち上げられるような瘦身矮躯である。そんな少年の膝蹴りなど受けても怪我等するはずがないと、思うかも知れない。しかし、其れは大きな間違いだ。まだ、たった数年間だけだが、血の滲むような武術の修練を積んで来たこの少年の拳や蹴りは大の大人と同等かそれ以上の威力を有している。少なくともコンクリートのブロックを容易く叩き割れる程度のパワーは有る。

そんな士郎の膝蹴りの直撃を顔面に受けておきながら、快活に笑っている青子の其の彫りの深い整った顔立ちは少しも損なわれてはいなかった。白くきめ細かな肌には青痣すらなく、鼻梁はスッと通ったままで鼻血も出てはいない。それどころか、息切れ一つ、汗の一滴も見せてはいない。まるで冗談のように無傷のまま、美しい相貌を保っている。

だが、しかし、今の彼女を見た者は其の美しさに目を奪われるより、其の凄惨な出で立ちに眉を顰めるだろう。

彼女は今、裸足に空手道着と言う色気の欠片も無い無骨な格好、女性がすべき服装では決してないのだが、どう言う訳か無骨さやゴツさよりも健康的な美が際立っており、よく似合っていた。しかし、問題なのはその服装ではなく、その道着の状態である。本来、真っ白な筈の道着は赤黒い斑模様になっていた。その赤黒い色はどう考えても血によるもの。勿論、其の血は青子自身の血ではない、士郎の血だ。

士郎の血によって青子の着ている道着の上下はこれでもか、と彩られている。其れもその筈、士郎と青子は今まで数時間に渡って幾度も幾度も組み手――と言う名の殺し合いをしており、其の度に士郎は死ぬ半歩手前まで叩きのめされ、血と汗を滝か噴水のように迸らされたのだから、この道着の惨状は必然だ。

惨状と言えば、青子の着ている道着などよりも今の士郎の方が相応しいだろうか?

体中、自身の血と汗塗れ、練武の際にいつも着ているウィンドブレーカーは血のシャワーでも浴びたかのように真っ赤だ。本来白い筈の肌は青痣だらけで、まるで何かの文様のようになり、麗しい中性的な相貌は青子の拳打を喰らって腫上がり、見るも無残な状況だ。なまじっか尋常ならざる美しさを持った美童である為、必要以上に惨たらしく見える。

目を覆いたくなる様な光景だが、青子は少しもそんな素振りは見せず、返り血まみれの道着の上を脱いで腰に巻き、上半身は豊満な胸を締め上げているサラシのみと言った肌も露な格好になる。

「さてと、もう一本と行きたい所だけど、お腹も減ったし、今朝の練武はこれまでにしましょう。」

そう言って、青子はズタボロの士郎を荷物のようにヒョイと肩に担いで行く。

青子の柔らかく冷たい肌は打撲傷と裂傷のせいでジンジンと熱を持っている士郎の体には心地良かった。

「で、士郎?今日の朝飯は何?」

「今日、の朝御飯は…ミネス、トローネとベーコンエッ、グです、よ……」

「そのミネストローネってセロリは入ってる?」

「はい…勿論……」

「え~?私がセロリ苦手なの、士郎知ってるでしょう?」

「ダ、メですよ…青子師夫。好き嫌、い、しちゃあ……」

「好き嫌い以前にセロリは食べ物じゃあないわ。あんな物を食い物と決めた奴の気が知れないわよ」

我侭を言う子供のようにブー垂れる青子とそんな青子を次から次に出てくる血反吐に突かえながらも宥め諭す士郎。

二人の今の血塗れの姿――全て士郎の返り血だが――と両者の拳打や蹴撃で無残に抉れて陥没した地面や血で真っ赤に染まった牧草を見ればつい先程まで繰り広げられてきた修羅場が夢などではなく、現実に起きた事だと言うのは言うまでも無い。

だと言うのに、二人はそんな風に他愛の無い事を、まるで食事前の親子がする様な会話をしている。其の至って普通で日常的な掛け合いは、今のこの惨状には何処までも似つかわしくなく、また、現実味が無かった。

「とにかく、私のミネストローネはセロリ抜き。良いわね?」

「ダ、メです……」

「師匠の言う事が聞けないの?」

「食事、に、関しては、調理者に権限、があり、ます……」

「セロリ抜き」

「ダメ…です……」

「セロリ抜き!」

「ダ、メ……」

そうしてお互いに一歩も引かない二人。

そんな朝食のメニューの内容以前にもっと気にするべき事が有るのでは、と思うだろうが、そんな物はいつもの事である、組み手と言う名の殺し合いをするのも、其れによって士郎がフルボッコにされるのも、こうして半死半生の士郎が青子に負ぶわれて他愛の無い会話をするのも。

いつもの光景、いつもの日常、いつもの生活、いつもの日々のいつもの一コマ、いつも通りの朝なのだ。

そう、ある一点を除いて、いつも通りの朝だ。

 

 

 

―― 閑話 出立 ――

 

天幕の中を覗いて見ると、其処には三人の知己が安らかな眠りの中に居た。

一人は私の後進、一人は私の同僚、そして一人は私の弟子である。

三人共起きる気配は無い。

聞こえてくるのはうら若い知己達の穏やかな寝息ばかりだ。

其れはそうだろう。空は煌めく漆黒に覆われ、白金の月が鎮座している。

人ならざる身である私は別として、彼等にとっては深い眠りによる休息の刻だ。

その穏やかで艶やかな三人の寝姿に私は思わず口元にフッと笑みを浮かべてしまう。

先刻書いた置き手紙を取り出し、己が弟子の枕元に其れをソッと置いて、

「行ってくる」

今尚、眠り続ける三人に私は言う。

 

 

 

―― Sign3 ――

 

「ふぁい、青子姐さん、ろぉうぞ……」

腫れ上がった顔の青タンのせいで何とも怪しい呂律になりながらも我が一番弟子は私にミネストローネの入ったスープ皿を差し出す、笑顔――らしき物を浮かべて。少なくとも本人は笑顔のつもりなのだと思う。しかし、顔中どころか体中、青アザやコブなど傷だらけなため、其の笑顔はぎこちなく歪んでおり、笑みと言うよりは顔の筋肉が引きつってしまっているように見える。其の上、更にそれらの傷を覆う包帯やガーゼ、絆創膏が素肌を覆い隠してしまう程、巻かれ、貼られていては此方が感じるのは痛々しさだけだ。

まぁ、私がやったんだけどねぇ、アハハハッ。

そんな事を思っていると、

「やりすぎだ、この馬鹿が」

隣から陰険と陰湿と冷血を其の儘音にした様な声がする。

其の声の主である女は煙草など吹かしながら、無駄に小難しそうな分厚い本を無駄に読んでいる。眼鏡も掛けていない若干釣り気味の目はいかにも性悪そうな光を灯していた。

この女は蒼崎橙子と言って、真に遺憾な事ながら私、青崎青子の姉である。

「何よ、弟子にどんな修行施そうと師である私の勝手でしょ?口出し無用」

「ああ、確かにな。だが、お前が言う所のその修行とやらの後、毎度毎度どこぞのメスゴリラにフルボッコにされた士郎の手当てをさせられる私の身にもなってもらいたい物だよ。」

「メスゴリラ?それって一体誰の事?」

「おやおや、自覚が無いのか、お前?ならば、女ヴァーバリアンでもいいぞ?」

「…………」

うん、今頃になって気付いたが、どうやらこの女、私に喧嘩を売っているらしい。喜んで買ってやるわ。

「上等じゃない、この変態人形女。ただのマネキン人形に戻してやるわよ」

「全く、貴様はだから蛮人だと言うのだ。頭の中は殺し合いと物をぶち壊す事しか無い。非生産的な事この上無いな」

「はっ、自分と人形の区別もつかなくなったどこかのド阿保の変質者よりは文明人で生産的だと思っているけど?」

「……言うじゃあないか、愚妹」

橙子は目を落としていた分厚い本をパタンと閉じ、煙草を地面に捨てて靴で其の火を踏み消す。

私は腰に巻いた血塗れの道着の上を投げ捨てて立ち上がり、両拳を構えた。

何時の間にか、橙子の手にはオレンジ色のカバンがある。

お互いに臨戦態勢となった。

ちょっとした事で緊張は弾けて、其の儘、殺し合いになるだろう。

しかし、

「クスクス……」

そんな緊迫しきった空気は聞こえてくるそのくすぐったい様な含み笑いによって、弾ける事無く萎んでいった。

勿論、こんなド修羅場を和ませられるだけの可愛らしすぎるクスクス笑いが出来る者と言えば、今この場には一人しかいない。

「何が可笑しいのよ、士郎?」

我知らず、ちょっぴり不機嫌な声で聞くと、士郎は変わらず含み笑いをしながらも答える。

「いえ、すみゅましぇん…なぁんて言ぅか、やっぱるぃ、御二人共、仲が良いなぁって思って」

「あん?」

「は?」

士郎のその見当違いも甚だしい言に私と橙子は揃って素っ頓狂な声を上げてしまう。

仲が良い?

何処のどいつと何処のどいつが?

この『青の魔法使い』蒼崎青子とあの『人形師』蒼崎橙子がか?

…………………………………………。

うん、有り得ない。

天と地が引っ繰り返ろうと、地獄の釜の蓋が開いて死人がワンサカ蘇ろうと有り得ない。

橙子を見てみる。どうやら我がクソ姉貴もこれに関しては私に同意のようだ。

「いいか、士郎?魔術に関わる者として物事と言うのは冷静的且つ客観的に観察し判断しなければならない物だ。これは分かるな?」

「?ふぁい」

「決して、主観的な視点や感情に偏ってはいけない」

「はぃ」

「其の上で聞くが、私とこの馬鹿が仲良く見えるか?」

「はい」

「…………」

母親が子供に1+1は2である事を教えるように士郎に説く橙子だが、何の躊躇いも逡巡も無く返ってきた答えに沈黙してしまった。

それは、私もだ。『開いた口が塞がらない』という諺があるけど、正に今の私と姉貴が其れだ。

しかし、こうして呆けている訳にもいかない。師の責務として、弟子の誤った認識は正しておかないと。

「士郎、私と橙子が何をしようとしていたか分かる?殺し合いをしようとしていたのよ?そんな二人が仲良しな訳ないでしょう?」

「え?でも、おりぇと青子しぃふも毎日やっているじゃあにゃいですか?」

「確かに殺し合いかもしれないけど、あれは組み手、手合わせ。ちゃんと全殺しにしないよう、半殺し、いや、三分の二……五分の四殺しくらいに止めて手加減しているから」

まぁ、それでも十分殺人未遂で成立するが、当事者である私と士郎には少なくとも殺意とかは無い。だが、先程のは橙子も私もバリバリ互いに互いを殺す気満々だった。主観的に見ても客観的に見てもそんな姉妹が仲良しな筈が無い。

「でぃぇも、ほりゃ、喧嘩しゅるほど仲が良いって言いましゅし」

「さっきのアレが喧嘩と言うレベルか?」

「士郎、あんた今度一遍、眼科か脳外科に行って徹底的に検査してもらった方が良いと思うわよ?」

「?」

私達が何を言っているのか分からない様子の士郎は首を傾げるが、そんな士郎こそ私達には理解不能だ。

私と橙子の溜息が重なる。

もう、何と言うか、毒気を抜かれて殺し合うような気分じゃあ無くなった。

握り締めた両拳を解いて椅子代わりに岩に腰を下ろす。

橙子もまた、オレンジ色のカバンを置いて、座り直した。

「もう、いいわ。其れより、朝御飯頂戴、士郎」

「ふぁい」

相変わらずガタガタの呂律で答えると、もうさめてしまったスープ皿のスープを鍋に戻してよそい直し、私に渡す。勿論、スープ皿の中には賽の目切りされたセロリ入りのミネストローネスープが有った。

「士郎、セロリ……」

「ダメです」

さっきまでヘロヘロの口調だった癖に、こんな時だけハッキリキッパリ笑顔で言い切る士郎。

こと食事や料理に関しては士郎は容赦が無く、有無を言わさない迫力みたいなものがある。

「あ、ちなみゅに、セロリでゃけ隠しちぇ捨てたりしたら、三日間食事にゅきですからね?」

御丁寧に止めまで刺してくれた。我が弟子ながら鬼だ。

私がこの世の無常に打ちひしがれていると「ところで」と橙子が口を開く。

「先程の件だが……」

「何よ、まだ何か文句有るの?」

「戦闘面に関する訓練に関してはお前に一任しているから、別段、士郎にどんな修行をさせようと文句は無い。『餅は餅屋』と言うしな。私が言いたいのは、手合わせや訓練で士郎を半殺しにするならするで、私の座学や講習に支障が出ないよう上手くヤレと言う事だ」

自分も士郎からミネストローネがよそわれたスープ皿を受け取りつつ「せめて三分の二殺し程度に抑えておけ」と言う橙子に私はミネストローネスープを啜りながら「善処するわ」とおざなりに答える。

そう、私と橙子が姉妹であると言う事実以上に遺憾な事だが、私の弟子――衛宮士郎は『人形師』蒼崎橙子の弟子でもあるのだ。私達の姉妹仲を考えれば、共通の弟子を持つなど有り得ないのだが、其処は其れ、色々と込み入った事情が有り、今に至っている。

『青の魔法使い』などと呼ばれている私だが、実際の‘魔術’や‘魔法’などの神秘を駆使した戦闘、殺し合いはお手の物ではあるものの、魔術理論やら魔術概念やらはからっきしだ。そういう小難しい事は私よりも橙子の方が適任な為、座学などの学問としての魔術は全てこの理屈屋に任せている。私が士郎に教えているのはいかにして眼前に立ちはだかる障害を壊し、殺すか、つまり、荒事のイロハを文字通り叩き込んでいる。私は姉貴のような『作る者』ではなく、『壊す者』だ。教えられる事と言えばこれぐらいしかない。

そして、士郎に‘魔術’ではなく、‘魔法’と言う魔術を遥かに凌駕する神秘を教えているのは……。

ん?あれ?

周囲を見回し、何時もならば、この朝の食卓に居るであろう人物が居ない事に遅ればせながら気付く。

「ねぇ、ところで、老師はどうしたの?」

私が聞くと焼けたトーストにバターを塗っていた士郎とブリキのコップで牛乳を飲んでいた橙子は共に微妙な表情をして口篭る。

二人の様子は気不味そうと言うか何と言うか、士郎と橙子自身、どう説明したものかと、困っているようだった。

「何なのよ、一体?」

「実は、今朝起きゅたら、こりぇが……」

私が再度、聞き返すと、士郎がポケットからオズオズと羊皮紙の封筒を手渡す。

赤い蝋による封印は既に破られており、中には封筒と同じ羊皮紙の手紙が一枚有った。

其の文面には、

 

『旅に出ます。探さないで下さい――』

 

と、舐めたセリフが異様に達筆な筆写体の英語で書かれていた。

手紙に書かれたその筆跡はどう見ても士郎の第三の師にして私の魔法使いの先輩、第三魔法の使い手にして最強の魔道元帥、『宝石翁』のものだった。

 

 

 

―― 閑話 城 ――

 

ドイツ――バイエルンアルプス

 

険しい山岳地域である其処に黒いフード付きマントを纏った老人が一人佇んでいる。

「一体幾百年ぶりであろうか」

と、その老人は独り言ちて呟いた。

老人の視線の先に有るのは山々に囲まれて聳え立っている壮大なる城砦。

黒曜石によって作られた高い城壁がグルリと周囲を囲み、城砦の本丸たる本棟は黒の大理石によって建造されている。

あと数刻で日が暮れようとしている。東の方は既に其の兆候が見られ、宵闇に染まりつつあった。

そんな周囲を侵食しつつある仄暗い夜の世界に有っても尚、其の城は飲み込まれる事なく黒く輝き、魔性なる威光を存分に放っている。

始めて見た者であれば、いや、初見でない者であってもその幻想的な光景に目を奪われただろう。

だが、その老人は特段、目を奪われる事など無い。

彼にとってこの城は馴染み深い物なのだ。

「さてさて、古い顔馴染みに会いに行くとするか」

マントのフードを目深に被り直し、老人は城門へと歩を進めて行く。

 

 

 

―― Foresee ――

 

古びたフォルクスワーゲンワゴンが舗装もされていない田舎道を行く。

ワゴンの後部座席に積み込まれている大きなバックやらトランクやら、または車のルーフにロープで固定されて積み上げられている山ほどの荷物はガタガタと揺れて今にも零れ落ちてしまいそうだ。

 ワゴンが目指しているのはクロアチアのスロヴェニア国境、首都ザグレブ方面なのだが、一時間以上前からこのような街道からも外れた人気の全く無い細道を走り続けている。

 どう考えても、全くの逆方向を行っている様にしか思えないのだが。

「士郎、本当にこの道で合っているのか?」

「………………」

 「士郎、もう一度地図帳を確認してみろ」

 「………………」

 「おい、士郎。聞いて……」

 いつまで経っても答える気配すらないナビゲート役である士郎に、隣の助手席を見てみると、

 「クゥクゥ…クゥクゥ…」

 「………………」

 地図帳を片手にそんな仔鳩のような寝息を立てて眠っている士郎に橙子は閉口した。

 本来ならば、居眠りなどしてナビゲーターとしての任務を放棄している不心得者の頭を引っ叩いてやりたい所だが、止めた。何とも穏やかで、無垢で、可愛らしすぎる士郎の其の寝顔を壊すのは指し物、蒼崎橙子であっても気が引けたのだ。それに、引っ叩いた程度で起きるのかどうかも疑問だった。今の士郎は助手席の少々草臥れたシートにその小さな身体を預けて熟睡しきってしまっている。

 「フゥ」と小さく溜息を吐き、橙子は片手でハンドルを握りながら、士郎を起こさぬ様にゆっくり静かに地図帳を取り上げる。道を確認してみると、橙子達のワゴンは目的地のスロヴェニア国境とは完全に真反対の道を行っていた。

 「やっぱりか……」

 橙子は車を止め、改めて地図帳を見直し、自分達の現在地を確認した。

 少なくともスロヴェニア国境から遥か百数十㎞は離れたクロアチア南部の地だった。

 「………………」

 予想はしていたし、自分としてももっと早くに気付くべきだった、とも思うが、改めて事実を突きつけられると色々と来る物がある。

 「この愚か者が」

 そう言って細く白い指で眠っている士郎のふっくらとしたいかにも柔らかそうな頬を摘んで抓る。

 ガキではないのだから、士郎に当り散らすような真似はしないが、この程度のちょっとしたお仕置きをするぐらいしても罰は当たるまい。

 士郎は「うぅん……」と仔犬の様にむずがるも、やはり起きる気配はまるで無い。

 今度は「はぁ」と深く溜息を吐く橙子。エンジンを切り、車を降りる。道のど真ん中だが、こんな辺鄙な所に車が通る事など稀だろうから、恐らく大丈夫だろう。

 西の方を見てみる。既に太陽は傾きつつあり、山の向こう側に沈もうとしている。周囲は其の沈み行く太陽の断末魔に似た朱によって染まっていた。恐らく、後一時間足らずで夜だ。

 「今日はここら辺りで宿を取るか……」

 レザージャケットの胸ポケットから取り出した煙草に愛用のジッポで火を点けつつ、橙子は誰にとも無く呟いた。

 時速100㎞以上で飛ばせば、二時間足らずで本来の目的地まで行けない事も無いが、あまり無理をする訳にもいかない。別にぶっ続けの運転が辛いとか、そう言うのではない。運転する側の方よりも運転される側の車の方が危ないのだ。

 橙子達が乗っている車――フォルクスワーゲンワゴンは一年前、橙子達が亜細亜圏からヨーロッパ圏にやって来た際に足として購入した中古車であり、その購入時で既に走行距離が十五万㎞有った。そして、現在に至っては二十万㎞以上ある歴戦の古強者である。詰まる所、いつ壊れてもおかしくはない、いや、壊れないでいられる可能性よりも壊れてしまう可能性の方が圧倒的に高い、こうして走っていられること事態が正に奇跡と言って良い、そんな棺桶に片足を突っ込んでいる廃車寸前のオンボロ車だ。事実、原因不明のエンストを起こす事は日常茶飯事、ライトを点灯させようとすると代わりにウォッシャ液が飛びだし、ギアを変えると爆発音と共にマフラーから火柱が立つ始末だ。

 そんな只でさえ壊れかけている走るスクラップで夜間の百数十㎞に及ぶドライブをする勇気など橙子には無かった。この辺りで車もそして橙子達も休息を取るのが無難だろう。

 しかし、今日も野宿かな……?

 人っ子一人居ない、勿論人家など見当たらない周囲を見回して、そんな事を思う橙子。

 「うぅ~……」

 「うん?」

 野犬が威嚇する際の唸り声の様なその声に背後の車の方を見てみると、

 「ちょっと…ここ何処?スロヴェニア国境目指してたんじゃなかったけ……?」

 青子が欠伸と共に車の後部座席から降りて来ていた。青子はジーパンに白のTシャツと言うラフな格好でプルプルと震えながらその豊満な胸を突き出すようにして思い切り伸びをし、ついでストレッチを行う。

 「はぁ~、体が強張っちゃった」

 「お前は寝ていただけだろうが」

 「ジャンケンで負けた姉貴が悪いんじゃん」

 「そうだな、だがせめてお前のあの鼾はどうにかならないのか?五月蝿過ぎる」

 「健康な証拠よ」

 「鼾はむしろ不健康である事の証拠だ、この阿保」

 自慢気に胸を張る青子に呆れた様子で橙子は言う。

 妹である青子は魔術を超越した神秘、魔術師にとって始発点であり終着点である‘魔法’を手にした‘魔法使い’であるとされている。橙子もまた、其の事実を知っているし、目の前でソレを見ているが、青子のあまりの無学さに「こいつは‘魔法使い’なんて大それた者ではなく、ただの馬鹿なのでは?」と思ってしまう今日この頃だった。

 「それで?ここ一体何処?スロヴェニア国境には見えないけど」

 「さぁ?クロアチア南部の何処かだ」

 「クロアチア南部?それ真反対じゃない」

 「言われなくとも分かっている」

 「どうしてそんな事になってるわけ?目を瞑って運転でもしてたの、あんた?」

 腕を組み、半眼で青子は橙子を睨みつける。

 「まさか…月並みに道間違えたとか?」

 「………………」

 「え?なに、もしかして図星?」

 「文句なら士郎に言え」

 橙子が親指で指し示す先に居るグッスリ眠ったままの士郎を見て、青子は全てを了解したらしく、「成程ね」と頷く。

 「今朝はとことんコテンパンにしちゃったからなぁ。疲れてたのね、きっと」

 「疲れてた、ね……」

 青子の言葉を其の儘繰り返す橙子。

 あれは疲れていたと言うよりは、損耗していたと言う表現の方が正しい。全身の殆どが打撲傷で腕や足の骨にはヒビ、脇腹の骨は数本折れてすらいた。加えて、内臓破裂とまでは行かないまでも臓器も若干痛めてしまっていた。普通ならば即入院の大怪我である。それを、ただ『疲れていた』と言う辺り、青子が今までどれだけの死線や鉄火場を潜り抜けて来たのか、其の遍歴が窺えるという物だ。

 まぁ、そんな大怪我をしておきながら一日足らずで殆ど回復してしまっている士郎も大概だが……。

 車の助手席で今尚眠り続けている士郎の顔には今朝まであった青タンや痣、コブはほぼ無くなっており、その形跡が極微妙に残っている程度である。体中の打撲傷も同じだ。腕と足、脇腹の骨も完全に元通り接合している。

 回復力――否、大した治癒力である。

 まぁ、士郎の体内に有る物を考えれば当然か。しかし……

 「今朝はいつも以上に手酷くやったな。お前が朝の練武で士郎を半殺しにするのは毎度の事だが、今回は下手をすれば、いくら士郎であっても死んでいたかも知れんぞ?」

 青子の拳は易々と人体を叩き潰して擂り潰す。魔術行使で‘強化’され、極限まで練り上げられた功夫によって打ち出されるその打撃力は物理法則など簡単に打ち破る威力である。幾ら士郎が常人よりも強靭な身体に鍛えていようと高い治癒力を持っていようと、青子は士郎を素手で易々と殺せてしまう。だからこそ、常日頃行われる士郎との組み手では、青子は間違って己が弟子を殺してしまわぬよう細心の注意を払い、加減して手合わせしていた筈なのだ、少なくとも今日以外は。

 「お前、途中からパワーだけは本気を出していたんじゃないか?いや、お前が本当に本気を出せば、一瞬で士郎は消し飛んでいただろうから、実力の片鱗と言うところか。お前に士郎を殺すつもりなどないと言う事は分かっているが、今日のはかなり危なかったぞ。下手をすれば、今頃士郎はあの世だ」

 「うん、そうね…ごめん……」

 「私に謝っても仕方ないだろう」

 「そうね……」

 「……どうした、やけにしおらしいな?気色の悪い」

 「………………」

 橙子の挑発するような言葉に、普段ならば売り言葉に買い言葉で言い返す青子なのだが、今日は違った。口を噤み、沈思黙考するようにして視線を下に落としている。

 暫くの間、二人の間に沈黙が横たわった。

 橙子は暗くなりつつある虚空に紫煙を吐き出す。

 聞こえてくるのは、風になびく草原の牧草がさざめく音だけ。

 「橙子……」

 最初に口を開いたのは青子だった。

 「今日ね…有り得ない事が起きたのよ」

 「有り得ない事?」

 「士郎が私から一本取ったわ」

 「何?」

 橙子は青子の方を振り向いた。

 「一本取った?士郎がお前から?」

 「ええ」

 「本当か?」

 「ええ」

 「……有り得ない」

 橙子には信じられなかった。あの士郎がこの青子から組み手で一本取るなどとは。

 魔術師などと言う胡散臭い物を生業としているのだから血生臭い荒事になる事も多々あるが、橙子はどちらかと言うと青子とは違い生粋の研究家肌の魔術師である為、青子のような魔術を駆使しての肉弾戦は好まず、魔術のみでの純然たる魔術戦を常套手段としている。よって、武術や格闘技等の知識は余り無い。

 だが、そんな橙子をして、青子と士郎、両者の力量にどれだけ大きな隔たりがあるのかは一目瞭然で分かった。

 士郎も成程、武芸者として其の技と力を日々磨き、努力し修行に励んでいるのだから決して弱くはないだろう。だが、其の技量は蒼崎青子と言う破壊の権化と比べれば微々たる物だ。

 実際、士郎は蒼崎姉妹と師弟の契りを結んでから今に至るまで毎日毎朝青子と組み手をしているが、今まで一本取るどころか士郎の拳や蹴りが青子に掠った事すら無い。

 青子と士郎には正に天と地ほどの力の差が有る。まぐれであっても何であっても士郎が青子から一本取るなど有ろう筈が無いのだ、本当ならば。

 だが、今日、本日、この日、その有り得ない事が起きた。

 「加減はしていたけど、手は抜いていなかった。油断もしていなかった。なのに一本取られた。それでちょっと動揺しちゃってさ、力加減誤っちゃったのよ……」

 「………………」

 「………………」

 再び二人の間に沈黙が横たわる。

 「青子……」

 今度は橙子から口を開いた。

 「今日…有り得ない事が起きた」

 「有り得ない事?」

 「士郎が夢を見た」

 「何ですって?」

 青子は橙子の方を振り向いた。

 「夢を見た?あの士郎が?」

 「ああ」

 「本当に?」

 「ああ」

「……有り得ないわ」

青子は目を丸くしている。其の表情から信じられないと言う青子の思いがアリアリと感じ取れた。

其れはそうだろう。武闘派とは言え青子もまた魔術師の端くれであり、そして其れを超える神秘の体現者である‘魔法使い’なのだ。士郎が夢など見る事は出来ない存在なのだと理解している。そんな事は物の弾みだろうと何だろうと起こり得る筈が無いのだ、本来ならば。

だが、今日、本日、この日、其の有り得ない事が起きた。

「今朝、士郎自身が私に相談に来たよ。嘘を吐いている様子では無かったし、何かの勘違いと言う訳でも無いようだった」

「………………」

「………………」

三度、二人の間に沈黙が横たわる。

「青子……」

「橙子……」

今回は二人とも口を開く。

「今日…有り得ない事が起きた」

「今日ね…有り得ない事が起きたのよ」

「『宝石翁』が消えた」

「老師が消えたわ」

「………………」

「………………」

「……有り得ないな」

「……有り得ないわね」

橙子と青子は互いに互いの顔を見合わせて言う。

『宝石翁』――

老師 ――

それは橙子、青子と同じく士郎の師匠である一人だ。

この世に五つだけ実在する『魔法』の内、第三の魔法を融通無碍に操る‘魔法使い’にして最強の魔導元帥、闇の世界を支配する‘二十七人の死の徒’その第四位たる老傑。その彼が弟子である士郎の前から突如として姿を消した。

彼の操る‘魔法’の性質上、いつの間にやらその場から居なくなる事など十分に有り得る。青子をも超える彼の豪放磊落且つ天衣無縫な人格を考えれば弟子を放ったらかしにして姿を消す事も無くはないだろう。

だが、其れは有り得ない事だった。少なくとも彼が衛宮士郎を弟子に取ったその時からは。

何故ならば、其れはつまり、いつ爆発するとも知れない安全装置を外した反物質爆弾をそこらに放り捨てるような暴挙だからだ。

どんなに常識や人間そのものを超越した感性を持っていようとも、其れと分かっていながら世界の終焉の引鉄となりかねない『麗しきパンドラの箱』を放置するようなイカレた行動は物狂いでもない限りしない。

絶対に有り得ない事が一日に三度重なって起きた。

その事実はジンクスなど全く信じていない二人をして『不吉な何か』を感じさせる物だった。まるで自分達の知らぬ間に、何者かの意思によって事が運んでいるような、そんな不快感だ。

そんな時、橙子の脳裏に今朝、自分自身が士郎に言ったあの気休めの言葉が蘇る。

 

『何かしらのサインかもな』

 

「あながち間違いでも無かったのかも知れん」

「何が?」

「予兆(sign)だよ」

「……ふぅん」

端的にしか答えない橙子に理解しているのかしていないのか分からない調子で頷く青子は言う。

「でも、そうだとすると、因果なものよね。よりにもよって、今日だなんて」

「?……あぁ、成程、そうだな」

考えて見ればそうだった。今日はあの日と、そしてあの日だったか。

橙子が目を落とす真鍮色の懐中時計の文字盤、其の隅に表示されている日付、其れは二年前のあの日と同じ日にちを示していた。

二年前、衛宮士郎が橙子達に弟子入りしたあの日――

そして、五年前、‘衛宮士郎’が生まれたあの日――

本当になんて因果な事か。士郎にとって人生の分かれ道に立ったあの日、そして人生がこれでもかと言わんばかりに粉々に打ち砕けて一変したあの日と同じ日にこんな事が起こるとは。まるで、今再び、士郎の人生の分かれ道に直面しているかのような、もしくは、人生が粉々に打ち砕け、一変してしまうかのようではないか。

ここまで来ると何者かに仕組まれているとしか思えなかった。

「悪趣味な事この上ない……」

「こう言うのを運命とかって言うのかしらね…ムカツク」

姉妹揃って与り知らぬ所で与り知らぬ内に与り知らぬ形で与り知らぬ筋書きを進めている、存在するのか否かさえ分からない何者かに悪態を吐く。

「だが、まぁ、何にせよ、何かしらのサインだとするのならば……」

「ええ、そうね……」

「「それはきっととんでもない厄介事だ」」

橙子と青子は一言一句違わずに言う。

これは最早、橙子達にとって確定事項と言ってもよかった。

どんな事であれ、士郎絡みで何かしら有った場合、其れは必ずと言って良いほど厄介事に繋がっているのだ。それも、尋常ではない規模のべらぼうな厄介事に。

しかも、今回は単なる予感だけではなく、そう確信できるだけの理由もちゃんと有る。

士郎の第三の師が姿を消した事だ。

先にも言ったように、彼が士郎を置いて突如失踪してしまうなど有り得ない。

では何故彼は姿を消したのか?

其の答えは容易に見当が着く。

士郎に関する事で何か有ったのだ。それも彼自身が直々に出張って対処しなくてはならない程の何かが。

もう、其の時点で予感は確信に変わる。

こう言った場合、先が見えているというのは逆に面倒だ。厄介事が待っていると言う事が分かっているのに、前に進まなくてはならないのだから。

でも……

「其れもまたいつもの事だ」

「ええ、いつも通りでしょ」

この二年間、橙子達は士郎と師弟として共に過ごしてきたが、厄介事と面倒事の目白押しで、心休まる穏やかな時間など雀の涙ぐらいしか無かった。むしろ、厄介事や面倒事の方が橙子達にとっての日常だったと言える。今になって、それが一つ二つ増えた所でどうと言う事もあるまい。いつものように食い破れば良いだけの話だ。

「しかし、出来るのなら取り越し苦労で有って欲しいがね」

「それは無理ってものでしょ。士郎に関わった時点で、私達は厄介事の渦中に命綱無しで飛び込んだような物なんだから」

「そうだな」

「それに、それを承知の上で、好きで士郎と一緒にいるんだし」

「……そうだな」

橙子はフィルターぎりぎりまで火が来ている煙草を投げ捨てて「フッ」と苦笑いを浮かべた。

思い出すのは二年前、士郎と契りを結び、師弟となったあのおぞましくも美しい紅き血の月夜の晩だった。

あの時、青白い月光で黒く見える血に全身を染め上げながら士郎は橙子と青子にこう言った。

『俺はあまり良い弟子には為れないと思います。だって師を破滅に追い遣ってしまうかもしれない弟子は決して良い弟子ではないでしょう?でも、俺は力が欲しい。どうしても、どう有っても、是が非でも力が欲しい。だから良い弟子には為れないかもしれないけれど、貴方達を破滅に追い遣ってしまうかもしれないけれど、貴方達の弟子にして下さい。お願いします、俺の師匠になって下さい』

まだ、物心着いたばかりの士郎は吐き気がするほど濁りの無さ過ぎる澄み渡った瞳でそう宣った。

其れはつまり、橙子達に「自分の願いの為に捨て石になって欲しい」と言っているのと同義だった。

これが只の子供の言葉ならば、自分達を破滅に追い遣るなど思い上がりも甚だしい妄言だ、と其の言葉を切り捨てただろう。だが、その時の二人は其れが子供の妄言などでは決してなく、純然たる事実なのだと思い知っていた。

行く先には破滅が待ち受けている。

先に有る苦渋は計り知れない。

‘約束された絶望の道’だ。

わざわざそんな苦難と身の破滅しかない道を選ぶ者など居はしない。

しかし、その時、二人がどのような選択をしたのか、其れは現在の橙子と青子、そして士郎を見れば自ずと分かるだろう。

「私達も物好きだな、否、酔狂と言った方が良いか」

「良いじゃないの。人生なんて一回こっきりなんだから、思うが侭に馬鹿やって、酔狂に生きた方が逆に悔いが無いし、たっぷり楽しめるわよ」

「馬鹿の馬鹿馬鹿しい理論だな」

「あら、変に小利口に纏まっているよりもいいと思うけど?それとも、何?姉貴はあの時、士郎の師になる事を選んだの後悔してるの?」

「フッ、それこそ馬鹿な、だ。私は常に其の先に有る結末がどんな物であるにせよ納得ずくで物事を選んでいる。後悔など有り得ない」

「あらあら、ご馳走様。其れってつまり士郎の為ならこの身が破滅しても構わないって言う乙女チックな何か……」

「さて、そろそろ行くか」

橙子は青子の軽口を反応する値すら無いとばかりにスルーして、さっさと車へと戻っていく。

「相変わらずノリ悪い女」とつまらなそうに顔を顰める青子も其れに続いた。

「でも行くったて、何処に?もしかして今からこの死に損ないのボロ車でスロヴェニア国境を目指すの?」

二人が話している間に日は山の向こう側に其の姿を殆ど隠しており、頭上は既に星空となっていた。

「言っとくけど、其れって自殺行為」

「私もそんな無謀な事は御免だ」

後部座席から身を乗り出して言う青子に橙子はそう答え、士郎から取り上げた地図帳を広げる。

「この数十㎞先に『ブランディワイン』と呼ばれる小さな村が有るらしい。そこで宿を取ろう。私達もこのボロ車も、そして士郎も少々休息が必要だ」

「ここんとこ野宿続きだったからねぇ。川とか湖での水浴びじゃなくて、久しぶりに温かいお風呂に入りたいわ」

青子は助手席を覗き込み「それにしても」と続ける。

「ホントよく眠ってるわね、士郎」

「ああ」

二人が見詰める先の士郎の寝顔はまるでルネサンス期の芸術家ミケランジェロが作り上げたピエタ像の聖母アリアに抱かれるイエスのように安らかな寝顔だった。それでいて、シャツやニットセーターの襟元から覗く項や鎖骨、白い肌にはまるで誘っているような人の情欲をそそる隠しきれない妖艶さが漂っている。

「うぅん、何だか色々な意味で悪戯したくなってきちゃった」

などと、頬を朱に染めて青子が冗談とも本気とも取れない事を言い始める。

橙子は「阿保」と半眼で言うが、青子の其れは無理からぬ事だ。

士郎は厄災を呼び寄せる『麗しきパンドラの箱』であるのと同時に、人を甘美な堕落へと優しく導く『慈悲深い淫魔』でもあるのだから。

かく言う橙子も我知らずに体が熱く疼いてきてしまっている。

普段のベストコンディションな状態ならば、こんな事は無いのだが、数時間にも渡る運転で存外に疲れていたのか、士郎の放つ‘魅惑’に囚われてしまっているらしい。

これは本当に早めに宿を見つけた方が良さそうだ。

橙子は青子に「馬鹿な事を言っていないで、行くぞ」と、エンジンをかけてマフラーから火を噴出させながら車を出す。

そんな橙子達の事になど気付かずに眠り続ける士郎を車を運転しながら横目で見遣る。

また、『夢』を見ているのだろうか、この『異端』は?

それとも、いつも通り、深い深い『擬似的な死』のみを迎えているのか?

だが、夢を見ているにせよ見ていないにせよ、例えこれから禍の坩堝に投げ出される事になろうとも、いや、だからこそ、せめて今、この時くらいは安らかに眠っている事を願い、橙子は言う。

「お休み、士郎。良い眠りを」

 

 

 

―― 閑話 謁見 ――

 

黒の大理石によって打ち建てられた夜の闇を体現する黒き城砦。

その謁見室にて魔導を司る宝石の翁はこの城の主が来るのを待っていた。

そして、遂にその時は来た。

黒き大理石と黒曜石によって作られた壁と床、窓は厚い暗幕によって堅く遮られ、謁見室は深い闇に囚われているが、其のうら若く美しき少女はこの城砦と同じく、暗闇など物ともしない更なる漆黒を纏って現れた。

少女の側に侍るは時に呪われし不老不死たる黒騎士と亡者の船団を率いて狂乱に興じる白騎士、そして、認識の木の実を貪った番の血脈達に対して絶対の殺害権を持つ霊長の天敵。

その漆黒の少女は超絶の存在たる彼等を当然の如くに従え引き連れて、片膝を着いて迎える宝石の翁の前へと進み出ると、

「久方振りね、『宝石翁』」

幼さと艶、そして存分の怖気を含んだ笑みを浮かべて言った。

ゼルレッチは片膝を着き、頭を垂れたまま答える。

「御久方振りに御座います、『黒の姫君』よ」

 

 

 

 

 

 

物事は当事者達の意思など解さずに動き続ける――

 

往々にして、其れに気付いた時は既に手遅れ――

 

全ては始まるより以前に既に終わっている――

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